夜と話す
-5/9

5/9
あまりにも自分ではどうにもできない事が続き、お祓いに行く。
街の祈祷師に依頼をする。名古屋の繁華街にある古いビルの1番上のフロアに突如現れる日本の田舎風の家屋。割烹着を着た女性と和風の病院服を着た顔に傷のある男の老人に出迎えてもらう。ひと通りの説明を受けた後、お手洗いを済ませて来いと言われる。私は道に迷ってしまい、ビルの一階まで降りてしまう。地下一階の花屋兼女の子屋さんにて屋上までの行き方を尋ねるが、応えてくれない。
迷子になりさまよっていたら伊集院光さんと遭遇する。ラジオいつも聞いています!言葉がわかりやすくストレートに光景が浮かんできます!野球についての知識はゼロなのですが、伊集院さんのラジオで野球というものに触れています。私が想像している野球は実際の競技とかけ離れているかもしれませんが、これが私にとっての現実で・・・。等、話しかけたかったが、「あ、伊集院だ〜」としか言えなかった。
明日からはタイ。以前換金し忘れたタイバーツだけで旅行が出来るだろうか。
5/10

雨の日は楽しい。コンクリートが濡れるにおいの、ずっと遠くから土や緑、動物が濡れているにおいを見つけるのが特に好きだ。
傘の縁から少しだけ見える人の顔も良い。透明のビニール傘だとなお良い。透明の膜に滲んだように浮かんでいるその人の完全な顔を想像してみる。
同時に孤独感が増す。これは雨のせいではない。私のお馴染みの、いつもの憂鬱以外の何者でもない。これは誰のせいでもない。勿論私のせいでもない。色々な物事を混ぜ合い、混乱させているのは私自身なのだが、好きでやっているわけでもない。自分に正しくありたい、裏切りたくないという律する気持ちと、もうどうにでもなれ、私は皆んなより早く死ぬんだ、という諦念。いつもの事だ。私はこの2つに苦しめられている。あるいは1人で苦しんで喜んでいるのかもしれない。よくある事ならば、そうなるように仕向けてこの状況を楽しんでいるともいえる。
私は、正しい自分と惨めで憂鬱な自分、どちらも認めたい。今日は惨めな気持ちに支配されよう。こういう日は雨で良かった。雨だからという言い訳をするのも結構好きなのだ。
5/11
カメラを持ってうろつく日。こんなに働けるのは本当にありがたい。
全ての仕事が終わり、ベッドに横たわる。窓の外からはまた雨の降る音が聞こえる。日曜日の夜の雨!この雨で邪な気持ちを流し去り、明日からまた健やかに生活をしたい。
今日はいい日だった。
5/13
家の外では暴動が起こっている。人々の怒声、泣き声、なぜか歌声。私はひっそりと家の中で息を殺して過ごしていた。妹と、その仲間たちがやってくる。私達の友人が亡くなったと知らされる。極悪で知られる妹達だが涙を流し祈る。暴動を鎮火させるために手を貸してくれないかと言われる。死んだ友人の為にもやると答える。しかしそれは嘘で本当の目的はこの家と財産、武器を強奪する事が目的だった。
自分が出来ることは何だ、どうやったらよく生きる事が出来るのか、いま自分が考えて行動するべき事は何なのか。
・・・このメモをつけている途中のこの時点でまた寝てしまった。続きは適当に書くが、きっとこんな感じだ。
妹達を残し家から去る。屋外での暴動はますます過激化している。やはり、私がけじめを付けるべきだと決意をして引き返す。強く走ろうとした瞬間、暴徒に襲われる。家の玄関先から妹が見ていた。助けて、と言おうとしたが声にはならなかった。自分の正しくなさ、弱さをとうの昔に受け入れていたと思っていたが、まだまだ未熟だ。認めていたら助けを求めていただろうか?
良くありたいと思うだけでは駄目だ、実行しなければ何の意味もないのだ。死ぬ瞬間の心境は未知だったが、こんな事を考えながら死ぬのだ。私らしいと思った。
5/14
今日が5/17だと思いこんでいた。少し先を生きていた事になる。
夜の空気に夏のにおいが混じっている。気持ちの良い気候が去り、苦しくてどうしようもない夏が始まる。
夏は常にうっすらと体調が悪い。日差しで頭が痛く暑くて気持ちが悪い。汗をかいてアトピー性皮膚炎にもなる。これが死ぬまで毎年続くのかと思うと心底うんざりするのだが、やって来るものは仕方ない。可能な限り楽しみたい。夏の楽しみを書き出してみた。
・かき氷(今時は通年食べられる)
・水着の女の子(毎日撮っている)
・サザンオールスターズ(夏曲以外も好き)
・ひと夏の恋(特に必要ではない)
5/16
空気が重たくて夜は雨が降る。
でも気持ちは晴れやかだ。今日も一日中写真を撮っていた。今日まで1週間と1日、毎日女の子を撮影させて貰った。自分の仕事が人の役に立てている事が嬉しい。やりたい事、できる事、仕事が全て一緒。写真は、もう、撮りたくて仕方がない。さくらさんに撮って貰いたい、なんて、言われたら心の底から喜んでしまう。
撮る事しか出来ないが、撮る事は出来る。
5/20
あなたは人の悪口を言わない、と言われる。確かに言う事も思う事もほとんど無い。
悪く思うほど興味が無いのだ。それに、大抵の人は悪意も無く行動しているように思える。いじわるをしよう、嫌な気持ちにさせよう、としてやっている人は距離をとり、無自覚に悪徳な行動をしている場合にはそういう人なのだと納得するしか無い。合わなければ仲良くならなければ良い。
5/22

左目に違和感があり、白目が血に染まる。絶望しかけたが片目でも写真は撮れる、と持ち直す。それに顔に迫力が出て、見た目として気に入っている。
母方の祖父の遺品のNikon F4のシャッターが切れなくなる。修理に出そう。このカメラで私や兄弟、従兄弟達を撮っていた祖父の事を想うだけなら壊れたままでも構わないが、幸いにして私にはこれを使いこなす技術も機会も持っている。譲り受けてからは一時はメインカメラと言っても過言では無いほど使用していた。
初老になり趣味がない為カメラを買って撮り始めたと聞いている。祖母もNikonのカメラを持ち、2人であちこちに旅行に出掛けていた。こんな重たいカメラを首から下げ、孫達と祖母の写真を撮っていたのだ。
インベカヲリ⭐︎さんの「家族不適応殺」を読み返していたところだ。小島一郎の祖母にインタビューをする件で、読むのを一時中断した。こんなにも自分の事を想ってくれる人がいても、あんな事件を起こしてしまうのだ。愛よりも絶望と病の深さを心が占めてしまうなんて。希望なんて無いのかもしれない。事件を起こした後も、祖母は変わらず小島の事を愛しているように感じる。愛?なのか?
愛する人が破滅に向かっていく様子なんて、私は耐えられない。何だってする、どんな言葉だってかける。でもそれでも駄目だったのだとしたら。愛される人も苦しいだろう。愛して貰えているのに、満たされない。もしくは足りない、見当違い、愛に意味がないほど心が遠くに離れてしまっている。絶望だ。愛し愛されている者同士で、こんなにも苦しい思いをするなら、最初からに憎み合っていた方が良かったのでは。それでも人を愛し愛さないといけない。なんて残酷なのだろうか。
私は愛について一つもわからないので全て想像だが、好きな人たちについて祈る事は出来る。今日がどんなにつらい1日であったとしても、眠りに着く前に一瞬でも安らげますように。
5/24

犬を触りに行く。犬カフェは都会のど真ん中に建っていた。犬についての知識がほぼゼロで撫で方も分からないので緊張したが、一緒に行った友人達がフランクに犬と触れ合っており、私もおそるおそる撫でる事が出来た。慣れてきたので犬とチェキも撮った。毛が長くて、手が沈みこんで見えなくなる程だった。
明るく陽気な雰囲気の犬カフェに居ながら、かつての犬と父方の祖父母の事を考えた。
私が幼少の頃は祖父母宅に犬がいた。私の産まれる少し前に、両親が桜の咲く川の側で拾ってきたという。はなちゃんと呼ばれていた。少し後に産まれた私の名前がさくらなのが、素朴で可愛らしい名前をつけたいという気持ちが伝わってきて好きだ。私は、自分がはなという名前でも良かったなと思っていた。
犬は死んでしまった。落ち込んでいる祖母に、また動物を飼ったら、と励ます意味で伝えると、こんな悲しい思いは2度としたくない、と更に泣いていた。騒いではしゃぐ子供ではなかったが、この日ばかりは祖父母の前で弟達や従兄弟を焚き付けて大騒ぎをして過ごした。当時習っていたピアノを弾きさえもした。祖父母が少しでも明るい気分になれば良いと思った。犬は火葬され、どこかのお墓に埋められた。祖父母宅から遠かった記憶がある。この何年か後に祖母が死んだ時、犬と同じお墓に入るのだと思い込んでいたが、違った。動物霊園のような所に埋めたのだろうか。
雑種の白い犬で、とにかく優しかった。散歩は祖父の担当で、晩年はよろよろと、それでも毎日散歩に行っていた。たまに散歩に着いて行き、祖父と犬が歩く後ろ姿を見るのが好きだった。道端を点検するように歩き進む犬が不思議で、おかしかった。なんでこんなにのんびり歩くのか、と祖父に聞いたら、犬には犬の感じがある、と答えていた。よく分からないがそうなのかと理解した。
犬も祖父母も死に、祖父母の家も解体した。ただの地面になった土地はびっくりするほど狭かった。
祖母は犬の前にも猫や鳥を飼っていたらしい。私が産まれる前の事なので伝聞と残っている写真のみだが。猫も鳥も死んだのだ。この時も悲しんだに違いない。でもまた、犬を飼う事になった。この犬が最後だと決めていたのだろうか。一生懸命に心から愛していたのだろう。
祖父と犬の散歩道はまだ残っているだろうか。なんて事のない郊外の生活道路だったが、短い距離の中でも川、公園、墓、保育園等色んな風景があった。今度見に行ってみるのも良いかもしれない。

5/25
昨日からベーグルが食べたくて仕方ない。ベーグルというより、クリームチーズを食べたいのかもしれない。早速購入をして朝晩食べている。

夕方は縄友達らとワインの勉強会に参加をした。飲み会ではなく勉強会だという事を念頭に置いて挑んだが、結局はしゃいでしまった。
4種類頂いたが、この世には美味しいワインととても美味しいワインしかないと思った。そもそも私は舌が未熟、もしくは馬鹿なので、味や香りの違いに気づけない。それでも有意義で、何かを学んだ気になった。
帰り道、参加者の縄友達らと連れ立って歩いた。大人になってから緊縛というアダルトな趣味を通じて出会ったのに、縄が無くても遊んでいる。爽やかないい気分だ。
5/26
良い調子が続いていたが、今朝から落ち込んでいる。何がどう良くないのか説明出来ないのだが、全て間違えている気がする。幸か不幸か今日は月に一度の精神科を受診する日である。医者に伝えられるだろうか。「なんか変な感じがする」。
病院の予約時間まで時間があったので薬局をうろついた。特に欲しい物は無いが化粧品売り場を見ていた。色がカラフルで甘くていい香りがする物ばかりだ。唇に塗る化粧品の一つにライチソーダ茶という名前の商品があった。可愛い名前やパッケージをつけて販売して、それを素敵と思って買う人達を思うと気持ちが安らいだ。こういう物を通じて人は楽しみを増やしたり、幸せを感じているのか。私の趣味ではないので購入はしなかったが、少しだけ気分が上向きになった。
その後の医者との診察ではどうでもいい事を喋り、自分の変な感じについては全く触れる事が出来なかった。また来月話す事にする。
5/27
最近は頭の中がごちゃごちゃで整理ができず、満足に作る事が出来ない。やりたい事はたくさんあるのに、何を作っても駄目になる。
ひたすら女の子を撮っている。これは楽しくて仕方がない。毎日死ぬまで女の子を撮っていたい。体調が優れずよく動かない体だったが、女の子を撮っていたら撮影が終わるまでにすっかり元気になっていた。
5/28
人に興味が無いと言われ、本当にその通りなので頷く事しかできない。両親、友人達、仕事相手の女の子達、みんなからの事を大切に想ってはいる。愛情なのかと言われたら違う。しかし私の中では親しみの感情を抱いている。愛情と感じるものが、人とは違うのかもしれない。私が愛だと思っている物は人から見たら愛では無い、違う感情なのかも。なのでその友人に対しては失礼な奴だとも思う。しかしおそらく正しいのだろう。愛している物は無いが、好きな物はたくさんある。
数日前から狂ったようにベーグルを食べていた。今朝も朝食に食べたのだが、クリームチーズを高々と塗ったベーグルを見てふと思う。私はベーグルではなくクリームチーズを食べたかったのだ。クリームチーズも一箱食べ終わったので、このムーブメントも今日でひと段落するだろう。
5/29

映画館で「サブスタンス」を観る。産まれてから少女期にかけて数えきれない程観たホラー映画のムードがたっぷり漂っていた。最近はきれいにまとまった静かな映画が好きだったが、自分が元々何が好きだったかはっきりと思い出した。血の量は多ければ多いほど良い。
映画本編とは全く関係の無い事だが、音が大きすぎて辟易した。今日に限って耳栓を忘れてしまった。刺激が強い音が特に辛く、耳を塞ぎながら鑑賞をしていた。映画鑑賞をする全ての人が見やすいように考えられた音量なのだろう。皆はこの音量が平気なのかと思うと怖くなった。
5/30
「フィッシャーキング」のような建物に住むことになった。寝室の奥の壁の向こうにもう一部屋あると気づく。夕方の横からさすオレンジ色の光で部屋の中が染まっていた。亡くなった祖父が書斎として使用していた部屋に置いてあった、細々とした物が並べてある。写真の中でしか見た事がない、祖父母がかつて飼っていた猫が生きている状態でうろついていた。餌皿に何も入っていなかったのでキャットフードを与える。この猫はπという名前だと知っていた。πちゃん、と呼びかけるとちらりと私の方を見て定位置なのだろう、窓のそばに置いてある猫の毛だらけのクッションの上に移動し眠り始めた。
見ている最中でもこれは夢だと分かっていた。待っていれば祖父が来るかもしれないと思ったが、来なかった。猫を足の先でつついたりしながら陽が暮れるのを見ていた。
滅多に無い事なのだが日中眠たくて仕方なかった。仕事を終えて夕方に帰宅をして、そこから電池が切れたように眠った。目が覚めたら20時で、夜の睡眠に差し支えがないかどうか不安だ。現在24時30分なのだが、全く眠たくない。(無事にぐっすりと眠った。何の不安も無い眠りだった。)
5/31
愛について考えて過ごしている。私は何かを愛した事が無いのかもしれない。でも、そうだとしたら夢の中によく出てくる死者達は?愛しい、もう一度会いたい、と強く願っているが、決してそれが叶わないから、出てきているとしか思えない。6月に向けて眠りが濃くなる。6月は過去の死者が多い。梅雨の重たい空気の向こうに存在しているのか?もしくは、私がそうだと思いたいのだ。
夜眠りにつく前に部屋の窓から外を見る時間が好きだ。空気の中に含まれるにおいや僅かに鳴っている風、通りを走っていく車(こんな夜中にどこに行くのだろう)、明日の朝の気配が全くしない夜の暗さを体で感じる。本当に明日が来るのだろうか。明日になれば私はまた起きて、身支度をし、大荷物を持って移動し、女の子達を撮り、また大荷物を持ち帰宅し、写真の編集をし、夕食をとり、長い風呂に入り、また同じように窓の前に立つ。こんなにたくさんの事をこなせるのだろうか。途方もない事に思える。いま立ち尽くしている私は昼間の私とは似ても似つかない。無なのか、昼間の私が過剰なのか。この夜の素体の状態の自分を誰かに見せる事は無いだろう。夜の気温は低く、風も少し吹いている為剥き出しの腕が冷えてくる。自分の肌なのに感覚が分からない。頭と体と心は常にばらばらだ。死者達が心象風景のような場所に現れる夢の中が、私の現実なのか。この頃はどうにも夢に足を引っ張られている。梅雨の重たい空気の中は夜見る夢と似ている。暗く重く陽が差さず全てが曖昧でぼやけて見える。6月は危険だ。日中も夢を見ているような心持ちになる。私の存在そのものを曖昧にさせ、整合性が取れなくなる。今ここで生きているという実感を持つ事が出来ないまま死んでいくのだろう。
頭と体と心が稀に一致する。写真を撮っている時、縄を受けている時、滅多に合わない、人と目が合った時。私は目を合わすのが嫌いだ。辻褄まで合ってしまいそうになるのが怖い。
何かを愛したいのかと聞かれたらそれは違う。私のたくさん持っている感情のうちのひとつに愛もある。愛の形が人と異なるのだろう。人々はどんな物を愛としているのだろうか。何だって良い、それは素敵な事だ。眠る前に私が愛とするものを想おう。多分それは梅雨の重たい空気や夜見る夢の中にあるのではなく、身近にある素朴で些細なものばかりだ。何かを愛せる自分についても優しい眼差しを向けよう。私は私自身の事をとても大切に想っている。だから6月も大丈夫だ。
