こんな夢を見ていたかもしれない
九月一日
(正しくは八月三十一日深夜)
台所で立ったままチョコレートを食べた。
新しくnoteを始めた興奮からか眠れない。眼鏡をかけず外をぼんやり見ていたら怖くなる。歯を磨き寝室に戻った。
和室に布団を並べて寝ている。我が家は人間二人、猫一匹なので川の字になることもある。
寝る前は忙しい。作業机の上を整頓し、猫の飲み水を換え、部屋に落ちているペットボトルやチューペットのカラを捨て、流し台に残っていたマグカップを洗う。
ここまで書き寝落ちした。



今日は夫がヴァイオリンを買ってきたことと、昼食に手巻き寿司を食べた。この二つの出来事以外は特に面白い事はなかった。
手巻き寿司は、私がしたくてたまらなかった。前日に仕込みを済ませば大変ではないとわかったのでまたやりたい。
九月二日

牛肉を貰ったのでローストビーフを作った。
先月、眼鏡を買い替えた。前の眼鏡は二年ほど使った。
買い物はだいたいそうだが、可能な限り調べる。下調べをしていくつかの店で試着をする。この眼鏡を買うまで三ヶ月ほどかかった。
そんなに悩んで買ったので意気揚々とかけている。しかし最近左耳の後ろが痛い。購入した店で調節をしてもらうべきだろう。
しかし行きたくない。担当してくれた店員さんが好みの人だったからだ。どれくらい好みだったかというと、知り合いの女に相談したくらいだ。
「眼鏡は何本まで持っていていいだろうか。年内にあと二回会いたいと考えると二本作ることになる。今日買った眼鏡も含めると合計三本になるが多すぎやしないだろうか。私のお小遣いだと三ヶ月に一本作れるか作れないかだと思う」
女から「眼鏡は多すぎるということはない」という返事が来て安心した。
好みであるが好きではない人、よく知らない人は嫌だ。
眼鏡の調節をしてもらい、目の前で眼鏡を掛けたり外したりするなんて嫌だ。
左耳の後ろを重点的に見られたり、顔に手が触れたりするのも嫌だ。
よほど精神的に落ち着いていて狩りモードの時でないとそんな事は頼めない。そして困ったことに精神的に落ち着いている時はあっても狩りモードになることはおそらく一生無いのだ。
こうして私は左耳が痛いまま生活することになる。
あるいは別の店舗に行く。
九月三日


母とお茶をする。アフタヌーンティーが好き。一口サイズの食べ物がたくさんあると楽しい。
母は楽器の演奏が好きだ。
昔はピアノの講師をしており、今は自分のバンドでピアノやアコーディオン、ベースなどを演奏している。
私もピアノ教室に通っていた。 読譜ではなく聴き取りを重視するメソッドで有名な教室だった。三歳から九歳で引越すまでだった。
しかし私はピアノに全く興味がなかった。部屋の隅で毛布に包まってぼんやりしているか弟たちと遊んでいたかった。
しかし母はピアノを弾かせることに一生懸命だった。
家で練習するときも付きっきりだった。やりたくないとは言えない。ピアノの前に座り、カセットで音を聴き、聴いた通りに指を動かす。
先生や母の「心をこめて弾いて」という指示が理解できなかった。私に自分を表現したい欲求は無いのだ。その時も、多分、今も。
嫌々やっている割には上手くなったので、みんなに褒められて嬉しかった。褒めて欲しいので練習を頑張るようになり、ますますつまらなかった。
九歳で引越した。
近所のピアノ教室にも通ったがすぐ辞めた。先生が指定する練習曲は全部弾いたことがあった。
多少、いや、半端に弾けるという自惚れだろう。木で鼻をくくったような態度をとる生意気で扱い難い嫌な生徒だったと思う。
思えば楽譜が読めない私のために熱心な先生だった。心を開いて真面目に通えば違ったかもしれない。この先生に褒めてほしい、を動機にできれば上達し、達成感を積み重ねてピアノが好きになっていたかもしれない。
しかしそうはならなかった。望み通り、部屋の隅で毛布に包まりぼんやりする時間が出来た。
母は「あんなに一生懸命練習したのに、いまはピアノを弾かないんだね」と不思議がる。また私が大人のピアノ教室などに通えば母は大喜びするだろう。以前の私ならばそうしたかもしれない。
しかしそうしないと決めたのだ。
誰かを喜ばせるためではない。
自分が楽しむことで、みんなにも喜んでもらいたい。
しかし言い淀む。言葉を探しているうちに母が先に進めた。
「でも私ががみがみ怒りながら教えていたんだから、つまらなかったよね、ごめんね」
そうじゃない、と伝える言葉を探すうちに更に言い淀んでしまう。
口が勝手に「そういえば夫がヴァイオリンを始めてね・・・」と言い出し、次の話題になった。いつもこうやって気持ちを伝える機会を逃す。言葉が、自分がもどかしい。
ピアノを習うのは嫌ではなかった。
みんなが喜んでくれたから嬉しかったこと。
楽しくなかったのは私の問題であって母は悪くないこと。
お金も時間もたくさんかけてくれたのに何にもならなくて申し訳ないこと。
もっと上手に伝えられたらいいと思う。
9/4

知り合いの女が「私の夫は食材に例えると白米だ」と言い出す。
主食だし、長期保存も可、お腹の調子が悪い時はお粥にもなる。なるほど言い得て妙だと思う。
では私の夫は?と問う。「葱だ」と言われこれも納得する。
煮て良し焼いて良し、薬味に良し、風邪の時は喉に巻けば良し。私にとっては常備食材なので無くなったらすぐに買い足す。でも使わない人にとってはわざわざ買わないかもしれない。
ならば私自身は?
手軽だがジャンクな印象が拭えない「テレビディナー」がふと浮かんだが、特別に大好きな「桃」。あるいはなんのオムライスに刺すだけでご馳走になる「お子様ランチの旗」でありたい。でもこの前「私をお菓子に例えたらなに?」と聞いた時に「みたらし団子」と言われたので、みたらし団子なのかもしれない。
(どうでも良いことを毎日聞かれる夫がかわいそうだ。)
9/5

我が家でメルカリが流行し、毎日何かしらを売り飛ばしている。夫は拾ってきたギターをリペアして売っている。職業リペアマンじゃん、と思いながら見ている。ギターは巨大なダンボールに包まれて感じの良いヤマトのドライバーに回収された。
来世では猫になりたいので徳を積みたい。今日は何も積めなかった。
九月六日

一日中同じ体勢で過ごした。
九月七日
小林清志さんが次元大介の声優を引退する。訃報だなと、思う。
すると昼頃に大塚明夫さんが引き継ぐと知る。輪廻転生が早すぎる、と思う。
「逃げるは恥だが役に立つ」を読んでいる。今更過ぎるが面白い。これ、結婚前に知っていたら・・・!夫との関係に不必要に悩むことはなかったのでは!?今後に役立てよう!と勉強になることばかり描いてある。
長年放置していた虫歯の治療をしている。理由が色々ある。面倒くさかったり、お金がなかったり、人と会うのが嫌だったり。
しかし一番は「どうせすぐ死ぬのに歯の治療をしても意味ない」だった。これは何事もそうだ。
「勉強しても死ぬのだから」「きれいになっても死ぬのだから」「家や車を買っても死ぬのだから」だから意味がない。死ぬのだから。
というのは、私は早く死にたいと常々思っている。これを希死念慮という。
きっかけがあればすぐにでも死んでしまいたい。そうなれば財産も美容も健康も意味があるだろうか。
しかしどうやら生きていかなければいけないらしい。
寿命が何歳かわからないし、またすぐにでも死にかけるかもしれない。とりあえず明日くらいまでは生きるだろう。
ならば今まで無意味としてやらなかったことをやってみてもいいのではないかと思った。希死念慮はなくならないので一生付き合っていくことになる。
まあ、なんにせよ、差し当たっては、まずは、歯医者の予約だ。